椹沢地区紹介


H普料神社(下椹沢)
 
 

 八幡神社の北方に鎮座しており、かっては宝龍宮(普料宮)と呼ばれた。創立時期は不明だが、椹沢楯や八幡神社の北方の守護神として建立されたとする説以外に、椹沢楯主が農民達と図り五穀豊穣の守護神として建立されたとの説もある。山形市神社誌によれば、椹沢楯が築かれた文治5年(1190年)以降、楯主が百姓惣代と図り、五穀豊穣の守護神として建立したという。寛文8年(1668年)松平下総守が山形城主の時代に代官印南久太エ門、佐藤孫助、松平弥平治の印形で八幡神社と共に社領を認められている。その後時代と共に管理する者も無く、崇敬する者も無くなり社殿も大破し、社領も荒廃してしまった。村には野獣の害や飢饉の年が続き、困った百姓達が占って貰うと、普料宮を崇敬すれば災害より救われるとのお告げがあり、早速お参りすると年ごとに野獣の害も無くなり、田畑は豊作となり百姓達が繁栄したという。安政4年(1858年)崇敬者が社殿を再建し村持ちとなったが、万延元年(1860年)崇敬者連中に社殿及び社領が譲歩された、とある。
 玄関部分は、椹沢小学校の校庭に建築された奉安殿の玄関を、昭和21年に奉安殿解体とともに移設されたもの。境内にご神木の市指定保存樹の大杉がある。かつて、境内に土俵が設けられており、塩分の影響で、植樹しても枯れてしまうという。

奉安殿:戦前、天皇、皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物。

参考文献  
・石造文化財を訪ねて(続編)(昭和62年椹沢郷土史研究会)・山形市神社誌(昭和47年山形市神社惣代会)
椹沢の歴史 長岡正昭
   



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