椹沢地区紹介


D下椹沢石塔群2(下椹沢988の3番地先東路端)
 二十六夜塔、青面金剛塔、湯殿山、標柱
 
 

湯殿山 慶應2年(1866年) 写真右から2番目
 正面に湯殿山、裏面に建立年月日と導師教覚院、「村内安全」と発起人として多くの講中の氏名が彫られてある。
 湯殿山神社は、熱湯の湧き出る岩石を神体とする自然崇拝から源を発しているが、山岳信仰の時代になり出羽三山に組み込まれた。湯殿山信仰の盛行を促したのは最上義光の信仰であるという。義光が重病にかかった際に湯殿山に平癒祈願をして全快した。それから義光は深く信仰するようになったと伝えられている。一般人の参拝が増加したのは、江戸の中期頃、講中の湯殿山供養碑建立の流行は江戸時代後期頃という。
 下椹沢村では湯殿山参りを「お山参り」、「権現様参り」、「お山懸け」などといい、10人前後で参拝したという。お山参りに参加する人達は出発の前日か、信心深い人は数日前から朝晩井戸や八幡神社前を流れる王川の清水で水垢離をとり身体を清め、前日八幡神社の拝殿に集合して先達人教覚院法印の先導で参拝詞を斉唱して行を積み、旅の安全を祈願し翌日早朝に白装束に草鞋掛けの身軽な服装で神前を出発したらしい。

標柱 慶應2年(1866年)写真右
 正面に建立年月日、裏側に施主遠藤治平と彫られてあるそうだが、苔で判読できない。湯殿山塔から一ヶ月遅れで建立された。下椹沢351番地の石塔群の中にも同じような石柱がある。

青面金剛塔 安永7年(1778年)写真左から2番目
 表面に庚申信仰の主尊とされる青面金剛塔と彫られた文字塔である。右側面に建立年月日と導師教覚院善亮法印と彫られてある。庚申講中で建立したのであろう。

二十六夜塔 寛政11年(1799年) 写真左
 正面は右に建立年、中央に二十六夜塔、左に建立月日導師教覚院大越家俊亮法印、講中の氏名が彫られてある。「大越家」(だいおつけ)というのは修験道の峰入りを相当数達成した修験者(山伏)に贈られた称号であり、教覚院は下椹沢で湯殿山参拝の先達や石塔を建立する際、導師を務めた。
これは、月待塔の一つである。月待ちは月を祭るという説、月の上がるのを待つ説などいろいろな考えがあるが、月を信仰の対象として、また月の出を待つという二つの面が習合したのではないかと考えられる。月待ちの行事は近世に入ると、所定の日に講の人々が集まって飲食しながら月の出を待ち、上天した月を拝む形が一般的になり、月待ちの記念あるいは礼拝祈願の対象として供養塔を建てることも広く行われるようになる。江戸時代に庚申講が青面金剛という主尊を持つと月待ちの二十三夜講や二十六夜講は愛染明王を主尊に持つようになった。「愛敬愛染」といって愛情、縁結びの神として講の主体が女性となったところもあるらしい。また藍染にも通じ染物の神ともされた。


参考文献  
・石造文化財を訪ねて 昭和60年 ・同(続編)昭和62年 椹沢郷土史研究会・石仏調査ハンドブック 庚申懇話会 昭和47年 雄山閣・山形の石碑・石仏 安彦好重 平成4年 日本文化社
  
 湯殿山塔  
 
二十六夜塔     
   
 
 
青面金剛塔  
 
標柱 
 



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