椹沢地区紹介


G水道記念碑(下椹沢 八幡神社境内)
 
 

 山形県第1号の水道布設事業の先頭に立って尽力した、当時の椹沢村村長遠藤四郎治氏及び関係者の功績を讃え、明治32年10月に下椹沢八幡神社境内に建立された水道記念碑。
 明治9年に置賜県、山形県、鶴岡県が合併し、現在のような山形県が誕生し、県内に十大区制が布かれさらに、明治11年に郡が誕生し、椹沢村は南村山郡に所属した。村民の飲料水は霞城の外堀から流れてくる水を利用していた。しかし維新後は城の荒廃で堀が痛み、また付近の開墾で水が濁ってしまった。井戸を掘るが地層は悪く、ガスが噴き出るという状況であった。明治28年山形市内で腸チフスが流行すると馬見ヶ崎川扇状地の最末端に位置していた椹沢村でも病は蔓延し、多数の患者と死亡者を出したことがきっかけで水道布設の機運が高まった。
 当時の村長を務めていた遠藤四郎治氏が山形県土木技師の三浦吉勝氏に設計を依頼した。その計画は山形市三日町砂塚地内(現在の城西YTS放送局付近)の自然湧泉のあった地点に貯水池を設け、地下3尺に埋設した土管で村内に導水し、12ヶ所の分配井を造って配水する、というものであった。この案をもとに明治29年12月に水道布設事業計画と予算を臨時村会に附議。承認を得て明治30年度より臨時事業として実施することとなった。工事予算総額は当時の金額で7,157円32銭6厘。これを村税と県の補助金で賄うこととなった。
 水道布設には反対派も多かった。水利権や土管で田が荒らされるというので猛烈な反対運動が起きたのである。賛成派は反対派を説得するのに大変苦労し、工事の一部がいわゆる「実力行使」で行われた一幕もあったとのことである。
 技術的な面では導水土管の調達が最も困難であった。『「尾州(愛知県)常滑産」と同質で内部に釉をかけた土管 』が指定された品質であったが、予算上購入は不可能であった。そこで、村木沢村長根で窯業を営んでいた後藤文弥氏を常滑に数カ月派遣し土管焼成法を習得させ、やっとのことで長根の陶土で求められた品質の土管を作ることができた。
 明治31年11月に土管埋没工事が着工、翌32年の3月末に完了し直ちに通水され村内の分配井に清水が流れ、村民一同蘇生の思いをしたとのことである。
 工事費の総額は、当初予算を約3,000円上回り10,116円38銭かかった(現在の金額に換算すると2億円超)。内訳は県費補助金が2,863円、村費負担額が7,253円38銭であった。約150戸の小村が村財政の10年分を越す巨額予算を組んだ臨時大事業を達成したのだから、その困難と苦労は想像を絶するものがあったといえよう。
 この水道は近代的な上水道には含まれないが、水圧を利用した地方長官許可の小規模水道として、県内第1号であり、全国の先駆をなした。
 現在、分配井の跡は残っていないが、土管の一部は今も地下に埋まっていると思われる。


 参考文献  
 ・山形市史近現代編  ・山形市水道70年誌  ・山形百年(毎日新聞社)



   



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