出塩 
でしおもんじゅどう
出塩文殊堂

   
   
   
   
 我が国に文殊菩薩が渡来したのは、宣化天皇2年(537年)で中国(当時は南北朝時代)の五台山から飛来し、神路山(伊勢皇太神宮の鎮座する山)の中)の中腹に安置して祀っていた。それが東北地方まで伝来したのは、平安時代の初めころである。出塩の文殊堂及び別当等の良向寺は弘仁年間(810~823年)弘法大師(空海)によって開かれたと伝えられている。御本尊の文殊菩薩像は弘人上人が一刀三礼の法で謹作された尊像であるとされている。
 山形初代城主、斯波兼頼公(最上氏の祖)が延文元年(1356年)羽州探題として山形城に入部すると、居城西方の鎮護として深く尊敬され、山頂にあった文殊堂を中腹の現在地に移し堂宇を再建された。更に境内・香花料として、山林一〇数町歩寄進し、天下泰平万民安隠を祈って大後麻供養を奉修せられた。これは毎年旧6月25日(現在は新暦7月25日)連綿として奉修が続けられている。慶長11年(1606年)山形城主最上義光公は、文殊堂を再建し香油料として二石を寄進されたが、この時信心の人々が石燈篭二〇基を寄進し、同年6月25日その落慶法要を厳修し諸願成就を祈祷した。この日は未明から参詣人が踵を接し、城下町のような賑わいを呈し、常夜燈の明かりが霞ケ城からの望見できたので、義光公も殊の外満足されたと伝えられている。
 その後歳月を閲するに従って、堂宇は甚しく腐蝕したので、当山三一世法鑑法印が再建を発願し、正徳3年(1713年)に竣工し、同年6月25日落慶した。更に明和9年(1772年)3月25日には、山門も落慶し正浄院褐学大阿闍梨を屈請して盛大な供養法会を厳修した。以後は遠近より参詣人、日を追って増し、いわゆる智慧文殊として諸願成就の祈祷とお礼参りのため、ますます信仰を増すに至った。



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