地 区 紹 介  



大郷地区の紹介






大郷地区の概要



大郷地区は、山形市の北西部に位置しており、山辺町と中山町に隣接しています。

地区内には、船町西中野東中野成安天神町見崎今塚

の7地区があります。




その大郷地区のほぼ中心の中野地区に当コミュニティセンターがあります。

地区には、県内で唯一、山形自動車道酒田線と東北中央自動車道の2本の高速道路が交わる、

山形ジャンクションがあります。この2本の高速道路によって、地域が4分割されています。




地域は農業が盛んで、山形市内でも最も大きな農村地帯であり、

稲作を中心に、果樹・蔬菜・花卉・畜産等の農産物の総合生産地帯です。

特に茄子の『蔵王サファイヤ』は、この地区の特産品となっております。




地区内にある公共施設及び主な施設は、いずみ保育園大郷小学校・大郷、明治、出羽地区の

総合中学校である
第七中学校屋内型児童遊戯施設「べにっこひろば」水運用センター見崎浄水場

の公共施設の他、山形県食肉公社総合福祉施設「いきいきの郷」、等の施設があります。



 
また、大郷小学校が建っている場所は、最上家ゆかりの中野城があった場所で、

1402(応永9)年、山形城主、最上満直の次男満基が築いた城である。

 その後、中野城主だった義時が兄の最上義光に襲撃され、義時は自害。

城は1622年最上氏
改易に伴い、廃城となった。




 今は大郷小学校の校歌の中に、“城あとのみどりの松に風かおり”と詩われており、

わずかに昔を偲ぶことができます。










大郷地区の人口と世帯数等


  大郷地区の人口  … 4,192 人

  大郷地区の世帯数 … 1,508 世帯

     ※《平成30年1月1日現在の住民基本台帳に記録されている世帯数及び人口》参照

  大郷地区の町内数 …     7 町内
 (船町・西中野・東中野・成安・天神町・見崎・今塚)

  大郷地区の班の数 …   100 組





大郷地区の公共施設等


   ・いずみ保育園

   ・大郷小学校

   ・第七中学校

   ・屋内型児童遊戯施設「べにっこひろば」

   ・水運用センター見崎浄水場

   ・西消防署天神町出張所



   ・山形県食肉公社

   ・総合福祉施設「いきいきの郷」

   ・JAやまがた天神支店

   ・ミドリオートレザー株式会社

   ・グループホームおおさと

   ・山形中野郵便局





大郷地区の歴史について


中野城


   



中野城の由来(全文)



 中野城は、中世における山形城の支城として、山形三代最上満直の次男満基が、応永年間
(一五世紀初め)に築城した連廓式の平城である。本丸は東西約三四〇m、南北約二五〇mで、
約七三,〇〇〇㎡の広さであるが、二の丸を含めると一七一,五〇〇㎡で、内堀は幅六mから
一〇mで、高さ二mの土塁を巡らし、二の丸に当る南西部には外堀を構築し、
東北部には寺院を配置している。


 中野の地は、戦略上、経済上のみならず、水・陸の交通上からも重要な地点であった。
しかも、宗家最上氏と中野氏は、次の如く、最上一族中最も密接な関係にあった。




   初代 満基 山形三代最上満直二男、中野氏を称す。

   二代 満氏 満基長男、七代山形城主、山形・中野両知行。

   
三代 義淳 満氏長男、八代山形城主、山形・中野両知行。

   四代 義建 義淳二男。兄義定は九代山形城主。

   五代 義清 義建の長男、最上義守(山形一〇代)の父。

   六代 義時 義守の二男




 六代義時にいたり、兄義光との家督争いから不和となり、更に天正三年(一五七五)、
義時方の義光呪詛一件が露顕して、義光方の夜襲にあい、中野城や寺院は灰じんと化したという。
義時は切腹し、その子備中は仙台へのがれ、中野氏はついに滅亡した。
 中野領は義光の支配となり、重臣を輪番で中野城に配置し、中野氏の旧臣は、
最上氏の家臣団に編入された。



  元和八年(一六二二)最上氏の改易後は、この城も廃城となり、ついに破却された。
現在、当時の面影を偲ぶものは、
掘形の一部と・楯・北口・中小路・楯坂・袋町・御蔵前・
築坪山・七日市場・的場・大手窪・馬場宿・馬洗場などの地名である。




 現在の大郷小学校は、本丸の西部に位置している。


                              平成元年三月  大郷郷土研究会