鈴川の歴史


子守観音堂・・・歴史マップ38を参照
 宮沢家(旧一明院)が祀る観音様で、以前は西向きの社殿でしたが荒廃したために修復するにあたって南向きに堂宇が変えられました。
 この観音様は約三百年程前のものと言われ馬に乗っている非常に珍しい子守観音様です。一般的には川原宿如意輪観音様と親子観音と呼ばれたこともありましたが、殆ど関係は無いようです。
◆如意輪観音堂・・・歴史マップ21を参照 
  この観音様も約三五〇年前の小さな観音様で昔は堂守の庵寺がありました。表宿の「太田六右衛門家」で管理していましたが、今では川原宿の婦人達が維持して祭礼などを行っています。
 現在も川原宿の守護佛として土地の人々の信仰が篤いのです。


 ◆最上坊稲荷神社・・・歴史マップ36を参照 
  昔このあたりの地図を見ると大きな松ノ木が書いてあり、それを「さがり松」と呼んでいました。それがやがて垂松という地名になって町名にもなりました。しかし明治時代になって松ノ木は枯死してしまい、この切り株跡に、約八十年程前稲荷神社を建立したのがこの稲荷様です。どこから分祀をしたのかを調べたところ、岡山県の最上位経王大菩薩かららしく、御神体は日月山明光寺に祀ってあることが判明しました。祭神は一応稲倉魂神と保食神と言われていますがそのとおりかどうかは判らないのが現状です。
  
◆鬼越えの地・・・歴史マップ16を参照
 鬼越の切通しは、昭和十一年に、表宿・川原宿・浦宿の三宿で工を起こし完成した道で、それまでは急で難儀な坂を越えて深沢の不動尊まで参拝したものです。
ここの山頂には当時の深沢不動尊にかかわる古い石碑や見上げると石鳥居などが残っています。その辺りが当時の山道で、要するに鬼越えと呼ばれた難儀な道であったことが判ります。
 現在峠の一部はまだ狭いのですが峠の両端は舗装され、山家側からも高原側からも楽に通られるようになりました。

写真 標柱 古い石碑  写真 鬼越の地
深沢不動尊にかかわる石碑  鬼越の地 

 ◆深澤不動尊・・・歴史マップ2を参照
 不動明王を祀り、近郷近在に鳴り響いた有名な不動尊で、特に眼病の神様と言われ、遠く室町時代の創建と言われています。神仏分離令以前は一明院の管理でしたが、その後金勝寺の管理となりました。
 各方面からの信仰が深く、毎月三日と二十八日が縁日となっていて今でも多少の人々が参詣に来ています。
 入宿山下から約三粁で鬼越を通って行けますが割合なだらかな坂道で簡易舗装もされており、バイクや経自動車でも行けるようになっています。高原町へ流る八龍川の水源地となっている奥の院の上にも沼もあって、途中の道端には元八龍権現様を祀った場所があります。今では高速道路の下をくぐって行くことになります。その参道の両側には多数の石仏や碑があって年代研究が出来る資料になっています。

 ◆和合十八夜観音堂・・・歴史マップ50を参照
 この観音堂は元屋敷(日月山の山麓で今の生花市場付近)にありましたが、江戸時代中期に火災が起こり和合の現在地に移祀されました。和合地区の守護仏として信仰する人々が多いようです。また十八夜観音は川原宿の石塔群の中にも存在しています。
写真 和合十八夜観音堂参道 石塔群  写真 和合十八夜観音堂
和合十八夜観音堂参道の石塔群   和合十八夜観音堂 

 ○キリシタン塚
 鈴川ふれあい館の東側、武田庄二商店入口の角あたりにありましたが、今はその跡も残っていません。
 昭和三十五年頃までは農道の分かれ道の東南に小さい塚があって、地区民からは、昔からここでは蛙も鳴かないと言われており、キリスト教徒の遺跡と考えられていました。
 鈴川地区には昔切支丹(キリスト教信者)が多く、特に双月地区の信仰者のことについての伝承や古文書が残っています。 

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