鈴川の歴史

 4、山家郷の史跡
 鈴川の中心と言われる山家地区には、多くの史跡が存在していて、この地区の伝承を物語っています。 

鎌倉地蔵尊・・・歴史マップ7を参照 
 四百年前に鎌倉から飛来したと伝えられる伝承があります。本当に飛んでくる筈もないとしても、土地の人々はそれだけ信仰が篤いということを示しています。境内にある樅の大木は山形市の保存木に指定されています。この東麓付近からは古代の出土品が地蔵尊を管理する武田邦夫家に保存されているところを見るとこの辺りは、一説によると金勝寺の前身である「建正寺」があったところとか、又は古い山家の集落があったところとも言われています。地名も本堂と言います。
 更に地蔵堂内には乳房の絵馬があることでも有名で、子育て地蔵としても鈴川地区のみならず近郷からも参詣者が多いようです。

写真 鎌倉地蔵堂内   写真 鎌倉地蔵尊 標柱
鎌倉地蔵堂内  鎌倉地蔵尊 標柱 


◆本堂 城輪明神・・・歴史マップ29を参照 
  山家本町の本堂地区にある城輪神社跡は、昔は現在の明神様を祀っている裏の山麓に社殿があったと言われています。何時の間にか西の表宿地内に移されて今は小さな祠が祀られているのみです。殆ど藪の中と言っても過言ではありませんが、地元の人々は大切に守っています。

写真 本堂城輪明神
 本堂 城輪神社

 ◆城輪神社・・・歴史マップ37を参照 
  山家本町の本堂地区山麓から何時の間にか移祀されたと言われていますが、何故今のところに屋敷神として祀られたかはさだかではありません。今後の研究の余地があります。本来の城輪神社は、庄内の城輪の柵付近にあって、本堂城輪神社と共に謎と思われます。祭典は旧歴六月十日。
 しかし、鳥海月山両所宮には、立派な祭殿があるところを見るとこれらに関係があるとも推測されます。
  
◆山家虚空蔵尊・・・歴史マップ49を参照
 山家本町の虚空蔵尊に対して一般的には表虚空蔵尊と呼ばれています。創建はやはり六百年前とも推測され、殆ど入虚空蔵様より若干下った頃とも言われて山家郷の鎮守佛です。
古い時代には山の中腹に小屋を設け、祭りの時は山家田植踊、そして芝居や祭文など、様々な催し物が若衆の手によって行われたようです。
 今は表宿・川原宿・浦宿で奉祭しています。別当は何故か相生町の秀蔵寺ですが、境内には金勝寺七世日州全朔大和尚の墓があります。中腹にある集会所に安置されている木彫りの虚空蔵菩薩像は見事なものです。

 ◆山家堤防跡・・・歴史マップ39を参照  
 鳥居忠政が元和八年(一六二二)に最上氏の後に山形城主となったことは前述の通りですが、馬見ヶ崎川の流れを変えたために頻繁に洪水が発生して鈴川の住民は非常に苦しみました。そのために川原宿が特に被害が大きく少しでも被害を防止しようと築いた堤防が今日まで現存しています。また、道路に沿って石垣を積んだ家が多いのも水害を防ぐ手段の一つでもあったことが推測されます。
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