鈴川の歴史


◆龍王山 長松寺・・・歴史マップ18を参照
 寛永十九年(一六四二)金勝寺四世の冷室全林大和尚によって印役に開山された、金勝寺としては一番早い末寺で、当時の集落や信仰を知る上で貴重な寺であると言えます。
 七転八起の日本一の達磨(念願成就の年輪達磨)があり、材質は台湾阿里山で千年を経た檜材で造られた身の丈八尺の巨大なものです。
◆無量山 龍泰寺・・・歴史マップ11を参照 
  龍泰寺は、昔、室町中期にこの寺の東方の山麓瀧の沢にあり、天台宗の「穫念寺」であったことは今の龍泰寺のご本尊が阿弥陀如来であることから明白と思われます。
 また、その伝承を裏付けるものとして、瀧の沢周辺を開墾したところ北朝の年号のある板碑が三基出土していて、それが今、門前に移祀されていることでも判ります。これらの板碑は今から六百年以前のものです。
 また、境内には八龍権現堂もあって、八龍は川の名にさえなっています。明治の神仏分離の際、集会所前にある「山ノ神神社」から移祀されたものです。

 ◆貴福寺跡・・・歴史マップ44を参照 
  鈴川小学校のグラウンドは、何の変哲も無いように見えますが、その半分ほどは金勝寺の四世冷室全林大和尚が江戸前期に開山した「貴福寺」があって多くの壇信徒は、山家や大野目の人々でした。しかし明治十六年に全焼して廃寺となってしまいました。全焼の時は山家学校(山家小学校)が開校されていました。東隣の深瀬昭四郎氏宅には、今でも貴福稲荷が祀られています。
  
◆泰國山 寶徳寺・・・歴史マップ20を参照  
 浜田にあるこの寺は、金勝寺の末寺ではありませんが、先代の高橋為宗住職は金勝寺の弟子として修業した関係から敢えてここにあげました。言い伝えによると、この寺は以前青野村にあった曹洞宗の寺で清龍山宝徳寺と言いましたが火災に遭い現在地に移して再建建立したものです。
 文政七年(一四一二)再度火災が発生して全焼し、安政四年(一八五七)漸く再建され現在に至っています。山号によれば泰國山とは、隣の落合集落の泉福寺と同様に国を守る何れも共通した国家安穏を願ったもので、二口街道沿いにある両寺は何か重要な意味でもありそうです。 


 ◆貞治七年板碑(月山行人結衆の碑)・・・歴史マップ8を参照  
 表題を見れば、金勝寺とは何の関係もなさそうですが、昔は「一明院」と言う真言密教の寺で、山家町のもと、一明院(宮沢家)の東裏にある一名「糠塚」と呼ばれる塚の上に立っている板碑があります。
 宮沢家は元々法印さんで、昔は修験者(山伏?)であったと言われています。宮町の鳥海月山両所宮の社家で一石二斗の手当てを受けていました。広大な屋敷を持ち田や畑もあったと言われています。板碑は則ち月山行人の結衆の人々百余人で造立した時の供養碑です。特に月山碑はごく少ないものの一つです。
 名称は、「頭をつけて月山を拝む」とのことからぬかずくが訛って「ぬかづか」と命名されたものでしょうか?或いは塚の形が糠を積んだようなので糠塚と呼んだのか判然とはしていません。
 この塚には碑の他歴代法印の墓石や、歴代法印が付近の民衆のために塾を開いて教授したという報恩碑もあります。金勝寺の過去帳によると歴代の法印の名は記帳されておらず、配偶者の名は書いてあると言います。
 付近の表宿石塔群の中には関連したと思われる「アビラウンケンソワカ」の梵字を刻んだ真言宗の石塔も現存しています。 

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