鈴川の歴史


8、高原というところ  
 高原は鈴川村の北東に位置し、国道十三号が開通してからは、その東方の町となってしまいました。
 元は植木・植野とも呼ばれた村でしたが、明治になってからは高原と改名されました。そこには龍泰寺があり、この町にふさわしい清楚な心温かい寺で明治初年頃には高原学校にもなったこともありました。
 また、境内には多くの石碑・石佛・石塔が立ち並びこの寺の古さを物語っています。

 記銘のものでは、
  延文五年 地蔵板碑≪一三六〇≫
  康安二年 勢至板碑≪一三六二≫
  應安元年 地蔵板碑≪一三六八≫
があって、南北朝時代の三基で、ことに康安二年の勢至板碑は当時の情勢を物語る貴重なものとして注目されています。何れも山形市有形文化財です。

◆八龍権現と山の神神社
  高原の鎮守様はもと雨や風、雪を掌る八龍権現様でした。そしてほとりを流れる川を八龍川と呼んでいます。
今も立派な堂宇が建ち、その裏には古い大木の桂の木が繁っております。
 ところが明治初期の廃仏毀釈令によって鎮守として山ノ神を祀ることになり、この権現様は龍泰寺の境内に遷座しましたが、高原の志ある人々は八龍講を作って祀り今でも続いています。
 さらに東山麓の地に新たな山の神神社を建造して崇敬しています。
 よく大雪や旱魃が続くと祈願参詣をする人々が見かけられます。鈴川にはこの他にも「山家の雨降り虚空蔵」と呼ばれる虚空蔵尊が祀られていますし、高原には有名な沼やそれを取巻く松茸山などがあって「鈴川音頭」にも紹介されています。




9、鈴川の古墳群 
 鈴川には代表的な古墳が二つ現存しています。
その他青野にはお花山古墳群もあって、大昔の形態を探るには絶好な遺跡といえましょう。一度、発掘しましたが、埋め戻したものも数ヶ所あります。

 高原古墳・・・歴史マップ12を参照 
  高原町と青野の境にある小山崎という小さな丘にあるのが、高原古墳です。
昭和二十四年一月末に発掘されたもので幅六十五糎・長さ二百五十糎・深さ四十六糎もあって、柵内には自然の川原石を組み合わせた箱型石棺が見られます。六世紀頃の古墳と考えられ、昭和二十七年に山形県の史跡第一号に指定された貴重な遺跡です。


上の原古墳・・・歴史マップ45を参照 
  上の原古墳も終戦後水道の貯水池を掘っているうちに発見されたもので、石棺保存のため若干移転して現在地へ保存したものです。高原龍泰寺から深澤への道に向かって右側にあって、高原古墳と同様に柵が設けてあり、鈴川郷土研究会の手によって設置されたものです。

    
 

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