昔から「山家の館山には山家河内守という殿様がいた」と伝えられてきました。
しかし長い年月の波に洗われてその証拠は何も残っていません。しかも金勝寺の過去帳には書いてはありますが、その墓石もなく、古文書も残ってはいません。恐らく火事による消失とも考えられます。
ところが鉄砲町の光禅寺の開基で山形城主の最上義光の墓前に四人の殉死者の墓が建っていますが、その内の一基に山家河内守の墓があります。「即永了心居士」の戒名と「慶長十九年二月九日」「源義光家臣」「山家河内守」と彫られています。即ち、山家河内守は山形城主最上義光(五十七万石)の家臣で主君がなくなったとき殉死したことが判ります。
それは、慶長十九年(一六一四)今から三百九十余年前のことです。色々な文書によると、山家城は山形城を守る最上四十八楯の一つでその領地は三千石であったとも書かれています。
しかし、館山の山続きの麓に金勝寺がありそこには二代城主斯波直家公の墓がありますがどうして山形城主がここに葬られたのか、そのあたりの事情が不明なのです。そして主君義光の殉死までした山家氏の一族がどうして地元に残らなかったのか、その謎を解こうと努力していますが未だ不明です。
山家氏を名乗る人々は全国各地におりますが、ヤンベと称している人がおおいようです。ほかにヤマガ・ヤマカ・ヤマヤなどと呼んでいる人もおります。
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