鈴川の歴史


  ◆荷渡大権現(にわたりだいごんげん)・・・歴史マップ5参照
 大平山(別名権現山)の麓、双月新町と東北中央病院の駐車場近くから山を登った処にあって、相当古い権現様です。延喜式(九二七)によると、陸奥国と出羽国を結ぶ官道として、双月地内に二本の山道がありました。馬見ヶ崎川がまだ西流していて、旧県庁前(文翔館)→六日町(相生町)→小橋町→肴町→皆川町(北山形)→江俣→陣場→鮨洗を通って須川に合流していた頃(今の山形五堰の一つ、八ヶ郷堰がその跡を流れています。)双月や山家、(和合を含む)は駅場であったらしく、馬場・馬道川・宿などの地名はその名残と思われます。交通の安全と荷物の無事を祈った神社です。
なお、最近奥殿の老朽化に伴って双月地区の信奉者により新しく奥殿が建て直され、素晴らしい社殿に生まれ変わっています。また、東沢・北村山・最上地区にも同じような荷渡権現が祀られています。


写真 荷渡大権現 鳥居


写真 荷渡大権現1


写真 荷渡大権現2



  ◆真鏡山 無量寺(むりょうじ)・・・歴史マップ6参照
 盃山の登山口にあった寺でしたが、バイパス工事のため、山の一部が削り取られたので若干移動して再建されました。もともと金勝寺の末寺中、この寺だけは大名などの開創ではなく、寛文八年(一六六二)金勝寺九世直震長淳大和尚によって無量庵として開山され、昭和十一年五月に無量寺となりました。一時は本寺金勝寺の管寺役をしたこともありました。境内には石像三十三観音や、交通安全観音などもあって、鈴川以外の信仰者によって色々と奉納されたものもあります。

写真 無量寺 正面入り口
無量寺 正面

写真 無量寺 姥神(うばがみ)の石像
姥神(うばがみ)
(奪衣婆(だつえば)ともいうそうです)

写真 無量寺 三十三観音碑
三十三観音碑



  ◆申洪水庚申供養塔(さるこうずいかのえさるくようとう)・・・歴史マップ25参照
 洪水記念碑で、かつ慰霊碑とも言えます。再度洪水が起きないようにと祈った純粋な信仰心が伺われます。
 文政七年(一八二四)の申洪水の時は、双月・和合・山家・大野目・印役・落合までその被害は甚だしく、堤防は破れ、人命・人家・田畑等も流されたことが記してあります。双月村の庚申講の人々が主となって建立したものです。

写真 申洪水庚申供養塔(さるこうずいかのえさるくようとう)
申洪水庚申供養塔


写真 供養塔の歴史標柱
供養塔の歴史標柱
「文政七年の馬見ヶ崎川最大の洪水の際、
人命・民家・田畑などの被害があり、それを供養した塔」



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