万治年間の頃、この飯塚に八郎右ェ門という庄屋様がおり石関の川に堰を架けた。
皆が庄屋さんの名を取って「八郎右ェ門堰」と名づけた。
なぜこの堰を架けたのか?
5月中旬頃になれば田に水を入れ代かきの準備に入る。
雨年ならば何事も起きないが、旱魃の年は各堰で血なまぐさい水争いが起こる。
この話が庄屋の耳に入り、ここの3つの水口に1本の木で堰を架けることを思いたった。
約5メートルの木で堰を架け、庄屋の許しなく開閉してはいけないこととした。
以後この堰での争いがなくなった。
しかし1つの問題が残った。
堰の北端の水口の農民2人が「俺たちは笹堰の本流に水利権があるのだ」と言い張り
新堰に加入するのを拒んだのだった。
やむなく横道(旧名)地区の水田の一番最後の田から木の堰で新堰の上を越して水を入れていた。これが樋越しの始まりである。
この堰も耕地整理終了と共になくなり、「樋越し」の名だけが残った。
※山辺町大塚の、ある古老からの口伝による。 |