下飯塚(5区)の薬師様は、今から約500年以上も前に建立されたと言われています。
口伝によると、当時薬師様の堂の南側に川を挟んで飯塚元屋敷があり、
飯塚の人々はそこに暮らしていました。
薬師様のある場所が村の北東、すなわち鬼門に当たる方角であったため、
屋敷神として敬っていたのでしょう。
しかし、元屋敷周辺も長年住んでいるうちに川の洪水などで住みにくくなり、
一村皆で現在の上飯塚に移り住んでしまったそうです。
その後元屋敷の跡は一円田畑と化し、薬師堂だけが残りました。
この地も佐藤某氏の年貢地となり、しばらくは佐藤氏がひとり、自費で堂一切の世話を
していたということです。
ところが、元屋敷から移って行った人々の子や孫たちが、薬師様は飯塚の屋敷神なのに
佐藤氏だけに堂の世話を任せるのは悪かったということで、
薬師様の世話に参加するようになりました。
中には薬師様を崇拝し、家族ぐるみで上飯塚から下飯塚に移り住む者も2〜3軒現れ、
分家も下飯塚に出したので、明治の末頃には2〜30軒の集落となり今日に至ったのです。
薬師如来は十二人の神将が護衛しており、十二神将の前に部落を作ったので、
部落の名を“十二神将前”と名付けたのですが、
後々略して現在の“十二の前”になったようです。
山形城三の丸の、お堀の西側にあった土手の下に、飯塚の村有地の桑畑があり、
その畑でとれた桑葉の売上金が部落の戸数割で分配されていました。
下飯塚では、そのお金を薬師堂の維持費に充てていたという記録が残っています。
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