シリーズ飯塚の歴史L 飯塚村の「はやり餅」
飯塚町郷土史研究会 小山忠一 
私が小学校を卒業して百姓を始めた昭和18年頃、
村に「はやり餅」という、ユニークな名のついた催し事がありました。
田植えが終わり、一段落ついた5月中旬〜下旬頃、誰とはなしに隣の家から
「明日“はやり餅”をやるよ」と口伝えで連絡(隣告げ)がきます。
連絡を受け、「我が家でも“はやり餅”をやろう」と思った家は餅搗き(もちつき)の
準備をし、各家々で一斉に餅を搗いたものでした。
このようにどんどん連絡とともに餅搗きが拡がっていくことから、
「はやり餅」と名がついたのでしょうか。
ただし、この隣告げは必ず告げなければならないものではなく、
どこまで告げようが、どこで止めようが誰も詮索はしなかったということです。
私の友人に、色々なことを知っているお寺の息子さんがいたので、
「はやり餅」のことを訊いてみました。
彼の話では、村の催事(正月や祭り等)で餅を搗くのは年間12〜3回くらいだったが
「はやり餅」のように一般の農家で餅を搗くのは、年間20回近くあったということです。
なぜ、祭りでもないのに農家だけが年に何回も餅を搗いたのでしょうか?
友人と2人で推測するうちに、大正10年にあった飯塚村の大火の話になりました。
村の戸数の約3分の1が大火で焼けてしまい、
それを復興するのには並々ならぬ苦労があったのは言うまでもなかったそうです。
農家は昼間野に出て働き、夕食後は畚(もっこ・・・縄などで編んだ網の四隅につり網をつけ、棒でつるして土砂や農作物などを入れて運ぶ道具)を作り、
それを町の荒物店に売りに行く生活を何年と続けた結果、
その甲斐あって戸々の台所は大変潤いました。
飯塚村は昭和の初期の頃から、水田の一戸平均の反別(たんべつ・・・田を一反単位に表した面積)は南村山郡で一番多かったこともあり、
食べることに困っていなかったようです。
自家用の糯米(もちごめ)で餅を搗きお菓子等の代わりにする余裕もあり、
「はやり餅」になった可能性もあると考えております。
     
 
@ 飯塚のナゾの板碑 G 飯塚町の熊野権現堂
A 八郎右ェ門堰と樋越し(とよこし) H 飯塚山楊柳寺
B 昔の耕地の字名 I 中の江の薬師様
C 飯塚村の大火 J 下飯塚の薬師様
D 飯塚町の庚申(こうしん)様信仰 K 飯塚の千度参り
E 志鎌集落の名字考 L 飯塚村の「はやり餅」
F 盗まれた地蔵さんの首